この世界は私達の心を移す鏡の世界です。
宇宙は本来、「空」ですが、
「空」に地球と言うスクリーンを置いて、私達の心を映し観ています。
スクリーンに映ったものに良い、悪いはありません。
地球のスクリーンは、コンピュータゲームのキャラクターの動きを映す鏡のようなものですから、
私達が何かしら、知りたいことの体験の為に、それに合ったキャラクターを自ら創り、
創られたキャラを演じながら、その過程を体験してるのです。
人の体や、動物や昆虫や、あらゆる森羅万象の立場になって、体験していますから、森羅万象が私であり、あなたです。
沢山の「私」に分離させた「私」は、全ての場所、全ての次元、全ての時空に存在し、
それぞれの私が、それぞれ観たい世界を選んで、体験しているのですから、
全てが私であり、良い体験も、悪い体験も、立派な人も、駄目な人もいないのです。
良い、悪いの概念の無い私は、色々な条件を設定して、その条件下での私の心の動きを観ているのです。
この世界での私が、悲しんで、苦しんで、時には死にたいほどに辛い思いをしても、
本来の私は、その体験を楽しみ、喜んでいます。
私達の魂は、私達の体を使って、世界を体験します。
男でも、女でも、格好良くても、悪くても、性格が良くても、悪くても、
それぞれの体験に合った体を創り、その五感を通して、映し出された、映像を観て、感じて、色々な感情を体験しています。
本来の私達がいる世界は、愛です。
無条件の愛です。
愛は、愛でないものを知りたいが為に、この世界を創って体験を始めたのです。
私達の愛の逆である闇を、体験したかったのです。
光は闇がないと光だと認識出来ないし、
黒がないと白が認識出来ませんから、
知識としては知っていることを、五感を通して、観て、感じて、体験しているのです。
ですから「私」は、
地球と言うスクリーンを通して、「私」が選んだそれぞれの闇の映像を、それぞれの「私」が体験しているのです。
私達は今回の、体験の場として選んだ、地球のスクリーンに、私達の心を映して、毎日、起きてくる感情を体験していますが、
実はこの世界は、スクリーンもなく、映るものもない、何もない「空」であり、幻想なのです。
宇宙の光が映写機となって、私達の心がスクリーンに映し出された映像ですが、
それを私達は、本当の世界だと錯覚して、生きているのです。
私達の体は原子で出来ていて、原子の周りを回る電子達は、互いに押し合う性質の為に、私達の体を触れるのです。
私達の体以外の、全ても同じです。
良い心を持てば、スクリーンに、良い人生を映り、悪い心は、悪い人生が映し出されますが、
「私」は、既に知っていることを、五感を通して、リアルに体験しているのです。
殴られなければ、痛みが分からないし、飢えた人の悲しみも、愛する人と離れた苦しみも、
直接体験しないと分からないですから、
ですから私達は、あらゆる方面の体験を選んで、来ているのです。
「私」を体験したい「私」は、
「私」でない、別の存在が必要でしたから、
自分でない分離した存在を創り出して、
この世界は分離しているように観せかけて、自らの記憶を消して、分離の体験に飛び込んだのです。
分離や恐れのない、愛だけの私は、
愛でない「分離」と「恐れ」と言う幻想を創りだして、それを体験している最中なのです。
その全てを創り出したのは全ての「私」であり、
全ては、一つのエネルギーで、
全てが一つの一点から始まっていますから、
私達は一つであり、私達が分離した「私」を体験しながら、「私」を、創造し続け、変化し続けているのです。