私達が毎晩夢を観るように、人生も私達が観ている、長い夢の中です。
夢のなかで私達は家族や財産を守ろうと必死に頑張っています。
出来れば人より多くを得ることが良いし、家族もその分幸せなはずですから、
それが出来るように頑張ることが自分の責任だと思いますし、
そして、満足出来る、あるいは自慢出来る自分になろうと頑張ります。
少なくとも、私は、自分に恥ずかしくない人生を行きたいと思っていますから、
私は、私から一瞬たりとも目が離せず、私を監視し、私に命令し、私はこうするべきだ、私はこうあるべきだと、一日中私の尻を叩きます。
ですが思い出せばどんな人も、一瞬、私を忘れている時があったはずですし、
その瞬間の素晴らしさを記憶していると思います。
私が、私を、忘れている忘却の瞬間こそ平和と愛そのものであったし、
又、その時は、全てが上手く行ったことを記憶してるはずですが、
本当は、私達は全てを知っていながら、私は知らないと思い込んでいるのです。
火事場の馬鹿力と言う言葉は、私が私を忘れた忘却の瞬間だけ、宇宙である私の本来の力で動ごいたので、
本来の私の凄い力が発揮出来たのです。
ですから私が、今の私を忘れるなら、本来の私に戻って宇宙と一体になれるのですが、
逆である今の偽の私に執着しているのです。
火事場の馬鹿力は、偽の私を忘れた為に、一瞬に並行宇宙にいる全ての私と繋がって、
全ての力が私の思いのままに集まったのです。
なのに私は、現実という妄想の中に舞い戻って、お金と、権力と、人に執着し始めます。
お金や人への執着は、私、への執着です。
私はいないのに、私は有るという、錯覚が私を苦しめているのです。
毎時、毎分を、私が、私が、と、
始終私だけを考えています。
そして、私のお金、私の権力、私の名誉、私の家族、私の家、私の体。
私という幻想を抱えて生きているのです。
私と言う幻想しか見ないから、周りが見えなくなるのです。
本来宇宙全体である本来の私を忘れているのです。
私が私と言う幻想を忘れている時に、宇宙が現れ、私と一体になるのです。
すると、並行宇宙に散らばっている沢山の私が一瞬で集まり、沢山の力が発揮出来ます。
この人生と言う夢を、夢だと気づけないのはまるで、
コンピュータゲームの中にあるアバタのようで、
アバタがゲームの世界が全てのように錯覚をしているのど同じだと言えるかも知れません。
ゲームの中でアバタが必死になって、お金や権力を追いかけていても、それらがアバタのものにはなりませんし、
アバタは電気信号で動いているだけの、人が作った虚像に過ぎません。
電気信号が止まればアバタも止まるのです。
人も五感と言う狭い世界の中で、この世界だけが全てだと思って生きてるから、苦しいのです。
私達は、五感の外に存在するものです。
五感の外から五感の中の私を観ています。
私達が、私が、私が、と、
一日中私だけを考えている私に、外の私はいろんな信号を送ってますが、
私達は、その信号に気づくことが出来ないのです。
一瞬でも私を忘れるなら、私が送る信号を受け取れますし、五感の世界の外側を観ることが出来ます。
そしてお金や名誉、私の家族、私の全てが虚像で、虚しいものだったと気づきます。
始終私から心が離せず、私と言う幻想への執着で、いっぱいになっていたことに気づくなら、
私達は、ゲームの世界から、本来の私へ戻れるのです。