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himeroguのブログ

スピリチュアルブログ

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人間が苦しむ理由(ラムサ)

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人間が人間をこんなに、苦しめる理由は何か?

このような世界を創った神は何処にいるのか?

神の愛は何処にあるのか?

神はずっとあなたと一緒にいた。

神はあなたの反映全体であり、あなたのゲーム全体だ。

神はあなたを愛して来た。

どうしてかと言うと、あなたが思うように、現実を体験させてくれるからだ。

そして、その夢を変える自由も与えられているのを、あなたが忘れているだけだ。

あなたは、不幸で悲しい物語を作り上げている。

あなたはあなたの体を壊してる。

あなたの心を隠している。

具像を信じ、人を批判する。

あなたは、審判し、憎悪し、所有し、恐怖し、傲慢だ。

それは、どのような目的からか?

その結末が知りたいのだ。

その結末はどうか?

決して死なず、永遠に生きること、天国と言うものを、理解し、受け入れること、あなたの顔を見ること、それが神だと言うことを知ることだ。

優れているあなた方は、
不安や心配などの考えに陥っているが、
生きてる間にあなたの美しさよりも、
あなたの反映の内側に深く隠して来たゲームより偉大だ。

あなたがどれだけ、偉大で美しい
かを知るなら、
今までのように、憎悪や、批判で、自分を変形させないだろ。

あなたの側に私が来た。

私は、あなたの姿であり、これからもあなたの全体だ。

あなたが既に知っている知識を、思い出させる為に、

そして、あなたがこの先、

自分を失い、罪意識や恐怖から、自分を守る努力を止めるようにだ。

あなたは、それより遥かに偉大だ。

私がどうしてあなたを、それだけ深く愛するか?
それは、あなたが私だからだ。

あなたの全てが私だ。

私が、あなたの想像を、創造させてあげる者だからだ。

唯我独尊である私は、常識を超えた愛だ。

条件も義務もないからだ。

私は単純にあなたを愛している。

あなたがどんな姿であろうとも、私が愛する神だからだ。

神が人間になるまで(ラムサ)

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昔、人間は、
自分自身が神だと知っていながら、数千年間生きていた。

それから少しずつ、自分自身が神だと言うことを忘れ始めた。

神々は、この人間としての遊びに夢中だったからだ。

神々にとっては、この世界で、生きることが全てとなった。

それから、人間は死を恐れ始めて、生存や嫉妬、所有などを経験し始めた。

それから、人間は永遠の生命の力の意識を忘れ始めた。

体は弱くなり、脳の能力も落ち始めた。

能力が減退して、人間には段々恐怖と言う感情が現れた。

恐怖から、人間は体の病気が現れ、その苦痛が始まった。

人間世界の始まりは、偉大な思想から始まったが、体や脳の衰えから、思想も弱くなり制限的になった。

恐怖から始まった生存への執着が始まり、煩悩として残った。

人間が体験した全ては、人間の細胞に記録され、残されるのだ。

神は、自分を表現したい欲望を持って、物質世界へ入って来た。

だけど、人間の肉体的な制限から、逃れられなかった。

人間としての死を迎えた時、神は空間へと入って行った。

その空間は、神意識にも、物質世界にも戻れない所だった。

神はもう、無限の意識の世界へ戻れなくなった。

人間世界の制限と言う意識を持ち続けてしまったからだ。

その神は、この人間世界の遊びが忘れられず、又戻れることを望んだ。

それで神は、自身の種を得て、それで又人間世界に戻った。

神々は、人間世界に深く入り込み、輪廻が始まった。

こうして、この人間世界が神々にとって全てになり、その神性を忘れて行った。

神々は全知全能で無限な知識も、忘れてしまった。

神々は、制限ある世界、制限ある生、制限ある考えだけを経験するのだと、合理化した。

自分には力がないと、考え始めた全知全能だった神々は、

地上にあるエゴに集まり染まり始めた。

自分が一番知っていると言う者が現れた。

それは、宗教となり、それが更に人々を神から分離させた。

力で人を支配しなくても、宗教は人を楽に支配出来た。

宗教は、人を無力だと教えた。

だが人は、永遠の記憶があるのだ。

全ての生を記憶する。

宗教が、神は外側にいて、あなたは悲惨な存在であると、何度も言い聞かされると、その魂の中に記憶される。

それが、数千年間続いた。

数千年間を輪廻しながら、人間は、このような教えを信じて来た。

人々は自分は悪人で、神は外側にいると信じていて、自分は神から見れば、取るに足らない存在だと信じるようになった。

人間が神の道に入れるのは、宗教団体や聖職者となるか、又は神の戒律を守って生きることだと、思うようになった。

人間が、自分自身が真実だと言うことを受け入れなくなった時、

本来の自分の力を諦め、宗教団体を信じ、依存するようになった。

人間は一人一人独特な存在であり、一人一人が独特な冒険をする資格がある。

人間は、人間の体を借りて数千年を輪廻した。

自分が神でないと思っている間は、輪廻するようになっているからだ。

人間として存在している間に、

自分が神だと気づくまでだ。


  ーラムサー



ラムサは3万5千年前の、アトランティス時代の魂で、その時に目覚めた神です。

ラムサは、こうして人間世界に、目覚めを促すべく、娘のチャネラーを通して声をかけています。

暗号化されてる脳と体(ラムサ)

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私達の脊椎の下に、龍が眠っていると言う話しを聞いたことがありますか?

脊椎の下、脊椎が終わる所に龍のような、蛇を巻いたような形のものが、ありますが、

これは、量子の塊のようなもので、これが目覚めると、人は大変な力を発揮すると言います。

スピリチュアルで言われているクンダリーニを開くってことですが、

これが目覚めると、量子の塊は、脊椎を回りながら上に登ります。

登りながら人のDNAを変えると言います。

爬虫類の脳は、脳間の上にありますが、
その部分に潜在意識があります。

ここが、人の脳のプログラムであり、この部分から、人の現実が作られたり、体にも影響を送るスイッチがあります。

そして、クンダリーニが開き、量子の塊が脊椎を回りながら、脳間へ到ると、全ての体のスイッチが、onになります。

すると、前頭葉に潜在意識が流れ込みます。

これが、クンダリーニ、あるいはチャクラが開いたと、言います。

この量子の塊が中脳に至ると、第6のクンダリーニが活性化します。

視床下部は、中脳から松果体を保護していますが、視床下部は全ての神経の繊維質の集合場所であり、脳と体の変換スイッチです。

クンダリーニが開くと言うのは、潜在意識が、前頭葉に流れ始め、松果体が開くことのようです。

つまり、古代意識や知識が現れ、私達は、自分の潜在意識と出会えるのです。

脊椎の下の量子の塊は、暗号化されていると言います。

私達自身がこのように、自分自身を創造したようです。

人間が夢から覚めるスイッチです。
人間が、この3次元で夢を観て眠っている間は、このスイッチはofになっています。

チャクラが開くと言うことは、このスイッチがonになり、

人間が3次元から目が覚めて、本来の自分を思い出すと言うことなのです。

私達の意識には、二つの次元があり、
私達が始まったゼロポイントと、私達を映し出す鏡の意識ですが、

この二つの意識が一致した瞬間に、永遠の瞬間があります。

磁石の中央です。

それは神に通じるトンネルのようなエネルギーであり、
それを私達は、クンダリーニエネルギーと言います。

私達は人間意識で眠っていますが、 

この二つの意識の出逢い、

ゼロポイント(観察者)と、
行為者(鏡意識)が出逢う時、

私達は全てに目覚め、

やっと神意識に戻れるのです。

感情は私のものではない

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色々な感情はただ感じてあげればいいのです。

意味をつけずに、ただ観てあげれば流れて行きます。

空の雲の流れを観るように。

同じ雲が戻ってくることがないように、私達の心に浮かんだ感情も、同じものが現れることはありません。

私達は観察者ですから、

私達に現れてくるものを、
嫌だとか、
感じたくないとか、
あるいは、
自分なりに解釈して観るなどをやめて、
ありのままに、
思い浮かぶままに、
感じて、観てあげるなら、
自然に流れて行きます。

川の流れに、同じ水がないように、
私達の感情も同じものはありません。

同じものが繰り返し現れる時は、
私達が、嫌ったり、抑えたり、曲げて解釈した時です。

現れる感情をただ、現れるままに、観てあげれば、

感情も自由に来て自由に去ります。

私の体が私ではないように、
感情も私ではありません。

起きてくることもありません。

私達は夢の中で、
起きてくるものを観ている者です。

夢の中で、
声を出しても、嫌だと言っても、逃げても、やっつけようとしても、

海の波と戦っているようなことです。

感情は、海の波と同じです。

現れる形をただ、観てあげれば去ります。

雲や波が同じ形がないように、

あなたがこだわらずに観るなら、

同じ感情に苦しむこともないのです。

バイロン.ケイティの目覚め

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全てが存在したことは有りません。

全てが存在することが出来ません。

あるように見えたその瞬間に、それは既に消え去ってますから。

何という愉快なジョークでしょうか?

仏陀の慈悲は、自然に流れ出る慈悲です。

慈悲は、自我がないことに気づいた後に残るものです。

知らなきゃならないものもなく、知っている人もいません。

ですから、私も知りません。

本当に面白いです。

仏陀は宇宙が親切だと知っていました。

僧侶と言う言葉は、独りでいると言う意味のようです。

現実でも私達は独りです。

全ての人は唯一の存在で、他人は有りません。

ですから僧侶とは、全ての人のことなのです。

僧侶とは、保護したり、防衛しなきゃならない自我がないことを理解する人です。

私のうつ病は、私が信じた考えから、来たことが分かりました。

私の考えを信じれば苦しく、信じなければ苦しくないことがわかりました。

そして、それが全ての人にも真実だと分かりました。

自由は単純なことでした。

朝、目が覚めたら、
私には、家も家族も自我もありませんでした。

どれも実在するものではありませんでした。

私は喜びの中にいました。

私のものも、あなたのものもありませんでした。

私が執着するものは、何もありませんでした。

他人に近づいて、相手が私で私が相手だと知っていたので、

相手を抱いて手を繋ぎました。

そんな行動が私には自然でした。

後から、そんな態度がおかしいと気付きました。

それで私は、
何もないのよ、何もないの!と、
言って回りましたが、

結局は誰にも分かってもらえませんでした。

真実は何もないことすら、ありません。

何もないとは、
ある何か、(sometime)
の話しです。

実際はその話しの以前の話しです。

私はその話しの以前で、

何もない (nothing)

その以前の話しです。

それは表現出来るものではありませんでした。

話そうとすると、それから遠ざかります。

言葉では伝えられるものではないことに気付きました。

それなのに、
それは私にとって、
とても単純明解なことでした。

 
時間と空間は実際しない。

知らない (無) が全てである。

愛だけがある。


私は止まらない喜びに浸って、私は歩く電球のように思えました。

人は、私を光る人と、言いました。

その光ゆえに人と分離することを知って、
その光を私の中にしまい、私は平凡に見えるようにしました。

仏陀の頭の上に、描かれる光のように、
彼と同じ人は、内面から光が現れるのでした。

それは、世界が自分の心の中から、現れることを理解し、心が、
平安になっている時に、現れる光でした。

仏陀は、静かに座っている時、

心は相手に通じ、
相手に質問をし、
相手も自分も、
自分自身となり、
理解を通して、
自分自身と出逢います。



  ーバイロン.ケイティー

観る夢を変える

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私達は観察者であり、観察される者です。

私達は夢を観ながら、その夢を創っています。

夢を観る者と、夢を創る者が同じです。

私達が、絵や文字を書きながら、それの出来具合を観ているように、

私達は夢を創りながら、創られる夢を観ているのです。

ですから、私達は観察者であり、観察される者です。

私達は、このような夢の世界を創れる力がありながら、それを忘れて、自分には何の力もないと言う、夢を観ています。

私達が望んで創った夢が、これからは、覚めて行く時代です。

スリルを求めて、創られたこの世界は、そろそろ夢から覚め始めました。

今、先を争って目覚める人が現れて来ています。

私達が観察者であり、観察される者だと言うことが、理解出来るなら、

私達は観察者側に回れます。

私達は毎日を自分自身で創っていながら、それに気づかず、

どうしてこうなるんだ?といぶかります。

毎日を自分で創造していることを知るなら、
もう少し考えるようになります。

今日一日をもっと良く過ごそうと考えます。

毎日が、私達が創った夢だと言う事実を知っていて観るなら、
あなたは変わるし、
それが目覚めです。

現実は今あなたが創っています。

1秒、1秒、舞瞬、舞瞬を、あなたが創り上げているのです。

あなたが、今とは違う現実を味わいたいと思うなら、
今から、夢を変えればいいのです。

夢を創造する者、その夢を観る者、それがあなたですから。

中毒状態とは

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怒りでいっぱいになっていると、
体の感覚を刺激し、怒りのホルモンを出します。

怒りのホルモンは、体を駆け巡り、体の感覚を刺激します。

すると更に怒りっぽくなります。

人が、怒りや恐れなどを感じた時は、それと同じホルモンを刺激し、そのホルモンは体を駆け巡り、同じ感情を刺激するようです。

快感を得た時も、快感を刺激するホルモンが出るので、それに人は、溺れます。

愛や慈悲の感情も、それと同じホルモンを刺激しますから、

慈悲や愛に留まることが出来るのです。


人は、愉快なことを喜び、それだけを良いとして、
不快なことが起きるのを嫌いますから、

常に愉快や不快に強く反応します。

愉快なことも不快なことも、ありのままに受け入れ、それに動じないでいることが出来るなら、

それが、即仏陀であり、人はそれを目指して修行をするのだと言いますが、


私達は、愉快な感覚が起きると楽しいので、又同じ快感を得たい思いが現れます。

すると、愉快な感覚に執着するようになります。

執着すると、対極では、嫌悪感も現れますから、執着が強ければ強いほど、嫌悪感も強くなります。

愉快な感覚が不快な感覚に変わり、不快な感覚が、対極にあった愉快な感覚に変わります。

これが自然の法則です。

ですから、愉快な感覚を望むと、不快な感覚を呼び寄せるのと同じ結果を生むのです。

この世界は振動だけがあります。

同時に物質もあります。

両方とも真理ですが、それを上手に統合して行くことが、仏教で言う「中道」だと言います。

すると、渇望や嫌悪を避けることが出来ます。

心が、愉快を追わなくなり、愉快や不快から自由になれば、心は浄化します。

それからは、人は慈悲を持って生きることが出来ます。

仏陀のように、慈悲や愛の人になりたくて、修行しますが、

仏陀は、体の感覚やホルモンの動きを知ることも、修行の助けになると言います。

中毒状態とは、
自分自身が出したホルモンに中毒されてることですから、

自分が出している、体のホルモンに中毒されてる事実に気づき、

体の感覚を懸命に観察して行くなら、

中毒から抜け出せるのだと言います。


 ㅡ고엔카 선생님ㅡ(コエンカー)