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himeroguのブログ

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バイロン.ケイティの目覚め

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全てが存在したことは有りません。

全てが存在することが出来ません。

あるように見えたその瞬間に、それは既に消え去ってますから。

何という愉快なジョークでしょうか?

仏陀の慈悲は、自然に流れ出る慈悲です。

慈悲は、自我がないことに気づいた後に残るものです。

知らなきゃならないものもなく、知っている人もいません。

ですから、私も知りません。

本当に面白いです。

仏陀は宇宙が親切だと知っていました。

僧侶と言う言葉は、独りでいると言う意味のようです。

現実でも私達は独りです。

全ての人は唯一の存在で、他人は有りません。

ですから僧侶とは、全ての人のことなのです。

僧侶とは、保護したり、防衛しなきゃならない自我がないことを理解する人です。

私のうつ病は、私が信じた考えから、来たことが分かりました。

私の考えを信じれば苦しく、信じなければ苦しくないことがわかりました。

そして、それが全ての人にも真実だと分かりました。

自由は単純なことでした。

朝、目が覚めたら、
私には、家も家族も自我もありませんでした。

どれも実在するものではありませんでした。

私は喜びの中にいました。

私のものも、あなたのものもありませんでした。

私が執着するものは、何もありませんでした。

他人に近づいて、相手が私で私が相手だと知っていたので、

相手を抱いて手を繋ぎました。

そんな行動が私には自然でした。

後から、そんな態度がおかしいと気付きました。

それで私は、
何もないのよ、何もないの!と、
言って回りましたが、

結局は誰にも分かってもらえませんでした。

真実は何もないことすら、ありません。

何もないとは、
ある何か、(sometime)
の話しです。

実際はその話しの以前の話しです。

私はその話しの以前で、

何もない (nothing)

その以前の話しです。

それは表現出来るものではありませんでした。

話そうとすると、それから遠ざかります。

言葉では伝えられるものではないことに気付きました。

それなのに、
それは私にとって、
とても単純明解なことでした。

 
時間と空間は実際しない。

知らない (無) が全てである。

愛だけがある。


私は止まらない喜びに浸って、私は歩く電球のように思えました。

人は、私を光る人と、言いました。

その光ゆえに人と分離することを知って、
その光を私の中にしまい、私は平凡に見えるようにしました。

仏陀の頭の上に、描かれる光のように、
彼と同じ人は、内面から光が現れるのでした。

それは、世界が自分の心の中から、現れることを理解し、心が、
平安になっている時に、現れる光でした。

仏陀は、静かに座っている時、

心は相手に通じ、
相手に質問をし、
相手も自分も、
自分自身となり、
理解を通して、
自分自身と出逢います。



  ーバイロン.ケイティー