全てが存在したことは有りません。
全てが存在することが出来ません。
あるように見えたその瞬間に、それは既に消え去ってますから。
何という愉快なジョークでしょうか?
仏陀の慈悲は、自然に流れ出る慈悲です。
慈悲は、自我がないことに気づいた後に残るものです。
知らなきゃならないものもなく、知っている人もいません。
ですから、私も知りません。
本当に面白いです。
仏陀は宇宙が親切だと知っていました。
僧侶と言う言葉は、独りでいると言う意味のようです。
現実でも私達は独りです。
全ての人は唯一の存在で、他人は有りません。
ですから僧侶とは、全ての人のことなのです。
僧侶とは、保護したり、防衛しなきゃならない自我がないことを理解する人です。
私のうつ病は、私が信じた考えから、来たことが分かりました。
私の考えを信じれば苦しく、信じなければ苦しくないことがわかりました。
そして、それが全ての人にも真実だと分かりました。
自由は単純なことでした。
朝、目が覚めたら、
私には、家も家族も自我もありませんでした。
どれも実在するものではありませんでした。
私は喜びの中にいました。
私のものも、あなたのものもありませんでした。
私が執着するものは、何もありませんでした。
他人に近づいて、相手が私で私が相手だと知っていたので、
相手を抱いて手を繋ぎました。
そんな行動が私には自然でした。
後から、そんな態度がおかしいと気付きました。
それで私は、
何もないのよ、何もないの!と、
言って回りましたが、
結局は誰にも分かってもらえませんでした。
真実は何もないことすら、ありません。
何もないとは、
ある何か、(sometime)
の話しです。
実際はその話しの以前の話しです。
私はその話しの以前で、
何もない (nothing)
その以前の話しです。
それは表現出来るものではありませんでした。
話そうとすると、それから遠ざかります。
言葉では伝えられるものではないことに気付きました。
それなのに、
それは私にとって、
とても単純明解なことでした。
時間と空間は実際しない。
知らない (無) が全てである。
愛だけがある。
私は止まらない喜びに浸って、私は歩く電球のように思えました。
人は、私を光る人と、言いました。
その光ゆえに人と分離することを知って、
その光を私の中にしまい、私は平凡に見えるようにしました。
仏陀の頭の上に、描かれる光のように、
彼と同じ人は、内面から光が現れるのでした。
それは、世界が自分の心の中から、現れることを理解し、心が、
平安になっている時に、現れる光でした。
仏陀は、静かに座っている時、
心は相手に通じ、
相手に質問をし、
相手も自分も、
自分自身となり、
理解を通して、
自分自身と出逢います。