怒りでいっぱいになっていると、
体の感覚を刺激し、怒りのホルモンを出します。
怒りのホルモンは、体を駆け巡り、体の感覚を刺激します。
すると更に怒りっぽくなります。
人が、怒りや恐れなどを感じた時は、それと同じホルモンを刺激し、そのホルモンは体を駆け巡り、同じ感情を刺激するようです。
快感を得た時も、快感を刺激するホルモンが出るので、それに人は、溺れます。
愛や慈悲の感情も、それと同じホルモンを刺激しますから、
慈悲や愛に留まることが出来るのです。
人は、愉快なことを喜び、それだけを良いとして、
不快なことが起きるのを嫌いますから、
常に愉快や不快に強く反応します。
愉快なことも不快なことも、ありのままに受け入れ、それに動じないでいることが出来るなら、
それが、即仏陀であり、人はそれを目指して修行をするのだと言いますが、
私達は、愉快な感覚が起きると楽しいので、又同じ快感を得たい思いが現れます。
すると、愉快な感覚に執着するようになります。
執着すると、対極では、嫌悪感も現れますから、執着が強ければ強いほど、嫌悪感も強くなります。
愉快な感覚が不快な感覚に変わり、不快な感覚が、対極にあった愉快な感覚に変わります。
これが自然の法則です。
ですから、愉快な感覚を望むと、不快な感覚を呼び寄せるのと同じ結果を生むのです。
この世界は振動だけがあります。
同時に物質もあります。
両方とも真理ですが、それを上手に統合して行くことが、仏教で言う「中道」だと言います。
すると、渇望や嫌悪を避けることが出来ます。
心が、愉快を追わなくなり、愉快や不快から自由になれば、心は浄化します。
それからは、人は慈悲を持って生きることが出来ます。
仏陀のように、慈悲や愛の人になりたくて、修行しますが、
仏陀は、体の感覚やホルモンの動きを知ることも、修行の助けになると言います。
中毒状態とは、
自分自身が出したホルモンに中毒されてることですから、
自分が出している、体のホルモンに中毒されてる事実に気づき、
体の感覚を懸命に観察して行くなら、
中毒から抜け出せるのだと言います。
ㅡ고엔카 선생님ㅡ(コエンカー)