人は自分が造りだしたことを知らないと、
仏陀はいいます。
あるものをないと見るし、
ないものをあると見る、と言うことです。
人は紐を見て蛇だと勘違いして驚く。
仏陀は紐をみて紐だと観る。
仏陀は起きてくることをありのままに観て、
人は起きてくることを造り変えて観るらしいです。
人は紐を蛇だと思い、
それに驚いたり怖がったりします。
この世界では色々なことが現れますが、
それを人は、ただ起きてることとして観ることが出来ないようです。
起きてくることはただ起きるのです。
水が流れてることに意味はありません。
水が流れるのは、その前の水が流れの縁が作られて、次の水が流れる行為が現れたのです。
自然では行為があり、行為から縁が作られ、縁から又行為が現れます。
それに対して人が、
色々な理由をつけて観るから、
物事が複雑になってしまってるようです。
人の五うんの、
色、想、受、行、識は、
脳で進行する過程であり、
これらは脳の活動が止まれば消えます。
脳の活動が止まれば、
体を構成してる原子だけが残り、その原子は他の生物の体に入るので、
人から見ると物質だけが輪廻してるように観えます。
物質であれ、精神であれ、それは人が名付けたものに過ぎないのだといいます。
全ての事柄は流れているだけに過ぎないのですが、
人はそれに対して色々な意味づけをして苦しんでいるだけなのです。
ないものを追いかけたり、
諦めていると現れると言う、
パラドックス的なことも、
人が物事をひっくり返して観てるからかも知れません。
私達が、
起きてくる事柄に対して、ありのままに観ることが出来るなら、
私達はやっと無知から抜けだして、
自らの灯火を得たことになるのでしょうか。