全てに意味はない。
良いも悪いもない。
ただ、そうなってるだけ。
愛情にも憎しみにも意味はない。
全ては縁によって集まって散るだけである。
生きることが辛いと思う時があります。
毎日が苦痛だと思う時もあります。
苦痛や苦しみから逃れようとしたり、
苦しみを嫌い、苦しみは現れるべきでないと思います。
生きることに意味などないと思います。
生きることは、なにかの罰のようにも感じます。
毎日楽しいことだけが続き、嫌なことがなければ良いと思います。
嫌いな人は居なくなって、好きな人だけが居て欲しいと思います。
そして、自分の性格や容貌などに、不満が沢山ありますから、自信が持てません。
こんな親から産まれたからだと、腹立てたり、周りの環境が悪い、政治が悪いと腹を立てます。
人はみんな楽しそうに見えるのに、私だけに嫌なことばかりが起きてくるようにも思えます。
お金が沢山あって好きな人が側に居てくれなければ、幸せになれないと思ってますから、
一生懸命それらを追いかけます。
一生懸命追いかけても中々手に入らないので、
苛々や、悔しさが積もって行きます。
人は全てを持っているように見えますから、
私も負けてはならないと、私も持っていないと馬鹿にされると思い、
頑張り続けるから、
毎日が戦いになります。
苦しみの連続です。
生きることは地獄のように思えます。
ですが、
起きてくる理不尽に思える事柄の全ては、私の心の中で起きているのです。
私が、好きなことと嫌なことを分けて、好きなことが現れると喜び、嫌いなことが起きてくると、嫌がり、苦しい、この世は地獄だと愚痴っているのです。
楽しいことも、嫌なことも、ただ縁あって起きたことであり、
縁によって、素粒子が集まっただけのことです。
縁あって集まった素粒子は縁が終われば散ります。
私達はただ、それらを観るだけでいいのです。
何も人より優秀である必要もなく、人より持つ必要もありません。
沢山持っている人が幸せだとは限りません。
毎日、苦しみが押し寄せて来るように思えるかも知れませんが、
苦しんで、苦しんで、苦しみの中に入り込んでしまえば、
それは苦しみではなかったのだと知ります。
ただ縁によって起きたことなのに、それについて、良い、悪いと決めつけて、喜んだり、苦しんだりしていたのは、自分自身だったと気づきます。
あらゆる問題は、私自身の考えが起こしていたのだと気づきます。
手と手を強く合わせれば音がなります。
手と手が合わさった縁によって、音が鳴っただけのことに対して、
私達はその音に対して、良い、悪いと文句をつけてるのです。
起きて来ることを、ただ傍観出来るなら、
私達は、既に観察者になっています。
観察者こそ、本来の自分です。
その事実に気づくなら、
既に仏陀のような自由な心へ、到達しているのです。