私達は愛だけの世界にいましたが、
その世界は、発展とか、努力や気づきがありませんから、
私達は、発展や気づきがある人間の世界を望んで生まれました。
私達は人間の世界を望み、
気づきを得るチャンスを待っていて、
やっとあなたに生まれたのです。
やっとあなたは、
発展と気づきを得るチャンスを得て生まれて来たのに、
今は、苦しいとしか思っていないのです。
苦しみがあるから気づきがあるし、愛が無いから愛を求めて、愛とは何かを考えるのですし、
私達は、楽をする為に来たのではないですから、
苦しみがなく楽な人生は意味がないのです。
「苦聖締」と言う、
苦しみこそ、聖なる真理だと、
般若心経にあります。
苦しみがある場所に気づきがあるのです。
気づきの為に生まれたのに、苦しみもなく、楽しいだけだと、生まれた意味がありません。
苦しみがある場所に気づきがあり、
苦しみが消滅された時、気づきが現れます。
苦しみだけにフォーカスしてるから、苦しみしか見えません。
苦しみの消滅の気づきを中々観ないのです。
苦しみが現れた時に、
苦しみの消滅も、
同じく同時に現れています。
苦しみがある人は苦しみの消滅も常に一緒にあるのです。
苦しみがない人は苦しみの消滅や気づきがないのです。
苦しみが聖なる真理と言うのは、その苦しみから気づきが得られるのですから。
私達の色々な問題、苦痛、痛みなどの問題は、
実は、
私達の解釈の間違いでもありです。
起きる問題を、ありのままに観て感じてあげれば良いのに、
あれは嫌だ、これも嫌だと、抵抗したり、人を羨んだりするから、更に苦しくなるし、
一緒に現れている苦しみの消滅に気づかないのです。
こうならなきゃならないと、自分が思い込んだ道だけを目指し頑張ってますから、
大事な気づきも中々現れないのです。
神々が望んで、待ちに待った人間の世界に来て、
何も得られずに帰ってしまったら、どんなに虚しいでしょう。
苦しみが聖なる真理だと言うことを知るなら、苦しみが喜びと変わります。
苦しみは解決する問題だと思うと大変な努力が必要です。
そしてその努力が正しいとは言えないのです。
この世の真理は私達の意のままにはならないのです。
生老病死は必ず現れるのですから。
意のままにならないことを意のままにしようと努力するから、
人は苦しみと痛みの中から抜け出せないのです。
苦しみは私達が神々の時の望み通りに現れてくれたのです。
ありのままに苦しみを受け入れて、感じてあげるなら、
苦しみは消滅し、気づきが現れるでしょう。
それこそ、天にも昇るような喜びが待っているのです。