私達は、
この世界が目で見えるし、聴こえるし、匂いが嗅げて、舌で味が判別出来て、触れる感触を感じますから、
この世界は本物だと当たり前に思っていますが、
この世界はただの幻想であり、見えるもの、聞こえるもの、匂いや、味、感触などの全てが、
原子と電子の動きに過ぎません。
森羅万象は原子で出来ていて、原子の周りを凄く早いスピードで、電子達が回ってますから、
物体が見えて触れるだけです。
起きてくる全ては、私達の心が造り出した世界であり、
本来は何もないのです。
私達は、あの人が好き、あの人は嫌い、あれは良い、あれは悪い、などと、あらゆる事柄を判別して見てますが、
そう判別している心が、全てを造り出しているだけです。
私達は、舞瞬を何かを判別し、それに従う感情の、憎しみや、怒り、悲しみ、苦しみを造り出して、それを本当だと思い込みます。
私より、良い生活をする人に嫉妬し、嫉妬の心が劣等感を呼び寄せ、
劣等感から抜け出す為に、憧れが生まれ、憧れる対象に執着します。
執着したものが手に入らないと、挫折や、怒りや、非難する心が現れます。
この世界は、私達の心を映してる鏡です。
嫉妬も、憎しみも、憤怒も、勝負心も、自慢心も、悲壮感も、劣等感や望みや、執着などの全てが、
私達自身が創り出した、「一切有心造」です。
静かな湖に、石が落ちてぶつかれば波紋が起きます。
それを私達が、
落ちた石は悪い、あんな落ち方をしてはいけないなどと言う、非難や、怒りを覚えるようなものです。
私に石が落ちてぶつかれば、傷を負った、殴られた、負傷したと怒り、
又そういうことが起きては大変だと恐怖します。
湖に石が落ちても、すぐに波紋は消え、元の静かな湖に戻りますが、
人の心は、落ちた石を受け入れらず、判別し続けて、波紋をますます広げて行きますから、
人の心は、憎しみと恐怖でいっぱいになります。
私達自身が、落ちた石を受け入れず、いつまでもそれに怒り、憎しみや悲壮感を造り出しているのです。
私達は本来根源の心であり、湖よりも大きい存在です。
ですが、この世界に生まれた瞬間から、本来の自分を忘れて、エゴのゲームにハマるのです。
湖に落ちた石は、一瞬波紋を起こしますが、湖は石をありのままに受け入れますから、
湖は、すぐに元の静かな湖に戻ります。
ですが私達は、自分に起きた事柄を受け入れられず、
怒り、憎み、非難し、恨みや、恐怖を、いつまでも造り続けてるのです。
この世界が幻想であり、私達自身が創ったゲームの世界であることに気づくなら、
そして、私達の体は原子の集まりで、原子が集まって一時的に、人間の形を形成されているだけのことを知れば、
全てをありのままに受け入れられます。
この世界は、感情が感情を呼び寄せますから、
いつまでも、怒りや悲しみや、非難、恨み、恐怖に支配されるのです。
この3次元の世界が、私達の全てだと思ってるから、怒りや、悲壮感が現れるのです。
体が私の全てだと信じてるから、人生が儚く感じられ、怒り、悲しみ、苦しむのです。
ですが、体が私ではなく、私は無限の心です。
私は、有限の体を持って、有限の3次元のゲームに参戦している、無限の存在です。
無限の存在は、傷を負って儚く消える存在ではありませんから、
何が起きても、起きるままに受け入れることが出来ます。
私達が、起きることをありのままに受け入れることが出来れば、
この3次元のゲームはwinとなります。