観察者のあなたに気づいていますか?
私達は毎日何かを考え、行動していますが、
それを見つめているもう一人の私がいます。
それが、観察者の私ですが、その私を、
殆どの人が気づいていません。
気づいていても、それが何かを考えません。
観察者の私は、私の考えや感情や行動を、観察しています。
その観察者は、私が泣いていても構いません。
どんなに私が苦しんでいても、観察者は喜びから観ています。
私が苦しい時に、神を恨みますが、神は、観察者の私です。
私は苦しい時に、この観察者の存在を知って腹を立てました。
私を苦しめながら、あなたは、それを観て楽しんでいるの?と、思いましたが、
ある日、私がTVをボーっと見ていたら、観察者の私が、私の後ろから近づいて来ました。
私は、その瞬間から突然幸せな感覚に浸り、観察者はどんどん近づいて来て、私の目とピッタリ重なり、一緒にTVを観始めました。
数時間を一緒にTVを観ている間の幸せ感は、言葉で表現出来ないものです。
そして、その観察者こそ私であり、体を持つ私も私で、観察者の私も私だと解りました。
ですからそれから私は、その観察者の私を頻繁に思い出し、幸せ感に浸りますし、
私自身が観察者だと知っていますから、辛いことが起きても、観察者の立場で観ることが、割と出来ています。
まだ、嫌なことがあると、悲しんだり、腹が立ったりしますが、早く静まりますし、
後から、観察者の立場で検討するようにもなり、冷静に物事を判断出来るようにもなりました。
人は、物質を得る努力をしている間は、本来の自分、観察者の自分に気づきません。
物質は必要な分があれば、それ以外の時間は、自分自身を観るのに使うのがいいです。
お金や娯楽に興味を持つ間は、覚醒や解脱は有りません。
物質がいくら有っても、人は満足しませんが、
本来の自分に気づけば、完璧な喜びの中にいられます。
見えるものは嘘で、見えないものが、本当だからです。
本当が見え始めた人には、不満や欲がなくなります。
何を見ても執着しませんから、その心は、観察者その者なのです。
人が理解しやすくなり、許しやすくなります。
自分が何者かが解っていますから、自分が愛おしいです。
世界の真実が解るようにもなります。
見えないものへの関心が高くなるから、その分、現実世界のいざこざに、興味が有りません。
体が自分ではないことが解りますから、恐怖するものがなく、心はいつも満たされています。
苦しみが有りません。
私達が永遠の存在で、始まりも終わりもない、
とんでもない存在だと言うことを知り、感激します。
私達はそのような存在なのです。