私達は、私は誰か?を知る為に、今の人生体験を選びました。
戦争や暴力や、人同士の葛藤や憎しみなどを体験する必要がありました。
私は、私を知る為に、私でないものを体験しているのです。
愛を知る為に憎しみを体験する必要がありました。
愛を知る為に悲しみを体験する必要がありました。
私達は相反するものを知って、反対側にあるものを知ることが出来ます。
ですから私達は、愛から離れた無知の世界に居る必要がありました。
無知が大きければ、愛も大きく現れます。
もっと分離していなければ、もっと大きな愛に気付きませんから、
私達は、あなたと私に分離され、憎み憎まれて、捨てて捨てられる体験をしています。
私達は自らこの体験を選びました。
ですから、残酷すぎるとしても、
私達自身が選んだものですから、
誰にも罪はありません。
私は一人であり、一つですから、
自分が自分を観たり、自分を知る体験が出来ません。
私は私の目を見ることは絶対に出来ないから、私達は私を見る為に、私の鏡が必要でした。
現実は苦しい、悲しい、腹が立つと、口を揃えて言いますし、
こんな世界に神なんている訳ないと、思いますが、
平和がある為に葛藤が必要で、葛藤がなければ平和も存在出来ません。
喜びを知る為に苦しみが必要で、苦しみが無ければ喜びも感じません。
完全を体験する為に、不完全の体験が必要ですし、不完全がなければ、完全もありません。
私が一つだと知る為に、あなたと私で分離されています。
私達の今の人間としての体験がなければ、神という認識も現れません。
相反する悲しみや苦しみや怒りがなければ、私達は、愛も平和も喜びも感じません。
ですから私達は、この物質世界を選びました。
苦痛が大きければ大きいほど、私への認識がはっきり現れます。
先祖代々、捨てたり、捨てられ、辛い感情を抑圧された集団の中では、目覚めや覚醒者が多く生まれます。
今までの世界とは違って、ほとんどの人が目覚める段階に入っています。
ですから、私達の苦しみや辛い感情が解消される為に、色々なことが起きています。
苦しみが目覚めの体験を呼びますから、私達は、苦しみと目覚めの両方を体験出来ます。
両方とも体験出来れば、その後は、何の体験も現れません。
何の体験もないという事は、私達は根源の心でいますから、根源の心は静かで動きがありません。
動きがないという事は、新しい動きが創造されるという事です。
ーナタンー